「医師としての使命」医師として大切にしてきた、たったひとつのこと|林先生

2020.8.11

東京女子医科大学のがんセンター長を務めるなど、がん領域を中心として活躍してこられた林先生。
大人への啓発だけではなく、子供への「がん教育」の必要性を感じ、
学校現場で「がん教育」を推進するなど様々な活動をされてきました。
そんな林先生がなぜ飯田病院に関わることになられたのか?
今回は、飯田病院に来られる以前、長年大学病院に勤務をされていた中でご経験されてきたことを中心にお聞きしました。

*参考記事
『私たちの流儀|林 和彦(東京女子医科大学 がんセンター長 化学療法・緩和ケア科教授)』

『東京女子医科大学がんセンター長 林和彦先生による公開講演|「今、学校現場で始まる「がん教育」」開催』

-林先生のこれまでのご経歴を教えてください。

実は子供の頃から医師になることしか考えていませんでした。
幼稚園の時の文集に「医者になりたい」と書いていたくらいで。
そして、中学3年生時に父親が胃がんで他界したこともあり、がん医療に携わるドクターになることを決めました。
家の経済状況も厳しくなって、高校生からはアルバイトを続け、なんとか国立大学の医学部に進むことができました。

「がんを治す医師になる」ことだけを考え、人生の全ての時間を捧げてきたと言っても過言ではありません。

千葉大学を卒業後、東京女子医科大学の消化器外科に入局するのですが、
それは「一番厳しいと言われる環境に身を置いて修行をしたい」という思いからでした。
当時、「神の手を持つ医師」として世間でも有名だった先生のもとに師事し、食らいついていこうと決めて。

働くことが楽しくて仕方なかったので、それはもう猛烈に働きましたね。
自宅にもほぼ帰らず、まさに夢中とはあの時のことだと思っています。
自分の知識や技術が広がっていくと楽しくて仕方なかったんだと思いますね。

数年が経ち、気づけば一定の信頼をいただける外科医になっていました。

ここで大きな転機が訪れます。
「外科医の技術だけではがんを完全に治すことはできない」ということに気づいた時、
多くの方の「がんを治す」ためには、別のアプローチを考える必要があると強く感じたのです。

医師になって5-6年目の時のことです。

-凄まじい人生ですね…。
多くの経験を経て、多くの方の「がんを治す」ために手術以外の治療の必要性を感じられたと。

はい。
今では一般的になっている「抗癌剤」や「内視鏡手術」などですね。
当初、内視鏡治療でがんと向き合うことを決意したのです。
専門だった食道がんの外科手術は非常に大がかりで、文字通り命がけの手術でした。
内視鏡治療ならば患者さんの負担はずっと小さくなりますから、そこからは日本で1、2を争うくらいの数の内視鏡治療をやりました。
ただ、また新たな課題に悩みました。
内視鏡治療は早期がんしかできないので、進行がんの患者さんを治すことはできなかったのです。

そこで、主任教授に直談判したんです。
「神の手を持つ先生でも治せない患者さんがいる」
「次世代である私がこの先30年間修行して、先生と同じ技術を身につけたとしても、医療業界としては進歩がない」、
それなら「違うアプローチでがんと向き合いたい」
と。

そこから海外に渡米して「抗癌剤の効果」や「遺伝子」の研究をすることにしました。
幸いにも研究結果でも一定の結果をおさめられて、現地で准教授にならないか?とお誘いをいただくことになりました。

そんな折、次の主任教授になられた先生に手紙を送ったら、返信をいただいたのです。
「日本の医療業界にも大きな変化が訪れている。」
「抗癌剤など新たな治療法などが必要不可欠になってくるので、その最前線でリードをして欲しい」という内容でした。

それで帰国を決めました。

日本人の2人に1人が罹るがんは、もはや国民病といえます。
そんな変化の中、われわれ医療従事者ができることは何か?
多くの患者さんを救うために必要なことは何か?


これらの想いから、がんセンターを新設するために全力を尽くし、結果的にはがんセンターのセンター長に就任することになりました。

-当時、林先生が考えておられた課題意識というのはどんなものだったんですか?

「国民のがんに対する意識の薄さ」でした。
「がんの啓発」をミッションにして働いてきた私としては、もっと多くの方にがんへの知識と理解を促したかった。

自分自身のからだを大切にして頂きたいのはもちろんですが、社会の理解がないために、がん患者が職を失ったり、
有効な治療を受けられなかったりする状況を、なんとかして打破したいと思いました。

そのため、医療業界だけではなく、経済界、政界の方々に講演したりしましたが、なかなか思うような変化が見られなくて・・・・・
最終的には、大人になる前、子供のうちからの教育が重要なのではないかと思うようになりました。

同じような思いの方々と力を合わせて文科省や政治家を粘り強く説得した結果、
新しい学習指導要領に学校で「がん教育」を行うことが明記されました。
医師やがん経験者が外部講師となり、
がんについての知識と理解を多くの国民が情報として得られるような環境を整えることができたんです。

発言力を持って活動するために、医師としてではなく、専門知識を持った教員として啓発したいとの思いから、
特別支援学校や中学校・高等学校の保健の教員免許を取得して、立場を変えてチャレンジしました。
そこから数年は年間100校ほどの小学校、中学校、高等学校を回りましたね。

-これまたすごいです…
「がんの啓発」をミッションに、多くのことを変えてこられたんですね。

常に、自分の使命を考えて走ってきました。
医師としてできることはどんなことか?と。


どんなことでも、「できないことはない」と思っていて、
本当になりたければ何年経っても努力するし、一歩ずつ進んでいけば確実にゴールに近づいていく。

あとは人生の時間と到達するまでの時間とどっちが早いかだけだと。

それが私の持論であり、大切にしてきた価値観ですね。

-ありがとうございます。
そんな林先生が飯田病院に赴任されてきたのはどんなキッカケだったんですか?

実は飯田病院の理事長が東京女子医科大学時代の先輩でして、
「様々な経験を持った林先生だからこそできることがある」とのお言葉をいただいたのがキッカケでした。

私の経験や知識を高く評価していただきましたが、
長年大学病院でやってきたことを基礎として、地域に根ざした医療をしてみたいと思ったのです。

患者さんから必要とされる病院でありたい。

これまでの実績から、すでに飯田病院は宇都宮という地域社会の一部になっていますが、今後医療は大きく変わっていくことが予想されます。

令和の時代にふさわしい、新しい地域医療を提供できるように、スタッフの皆さんとともに頑張ってみたいと思っています。

<医師としての使命>
・「がんを治す医師になる」ことだけを考え、人生の全ての時間を捧げてきた。
・多くの患者さんを救うために必要なことは「がんに対する意識を変えること」だった。
・大人だけではなく、子どものうちから「がん」について知ってもらえる機会を作りたかった。
・飯田病院が「地域医療」として求められることを提供し続けていきたい。